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2012年3月14日水曜日

ありがとう、ナイバシャ。

昨日(3月13日)、ナイバシャを無事に去った。 

その2日前に「ナイバシャクワヘリ(お別れ)BBQ」を後輩隊員が開いてくれた。
ここ最近、おいしいお酒を飲む機会が続いている。

ナイバシャ最後の昨夜は、飲みたくなって、一人ぶらりとヤギ肉を食べに行った。

ナイバシャ飲みおさめ。
いつも相手になってくれる店のお姉さんがいつも通り陽気でお肉もウガリもうまかった。


出発当日は配属先や今まで関わってきた機関に活動総括レポートの提出と挨拶まわり。

赴任当初の挨拶のために持ってきた扇子を今までずっと持ったままだったけど、
このタイミングでお世話になった人々に渡した。

玄関マットのプレゼントをもらう
扇子にも興味津々
赴任当初は余ると思っていた扇子が、すぐに足りなくなった。 

思えば色んな現地の人に助けてもらったケニア生活だった。 

カウンターパートにも渡した。
何だかんだで、一番考えるきっかけをもらったのが私のカウンターパート。

一筋縄ではいかない相手だったが、その日の夜にメールでコメントがきた。
ケニア人ならではなのか、それもまたよくわからないけれど、
その内容はとてもうれしいメールだった。

住んできた国が違っても、立場が違っても、
同じ問題として取り組む同志とならなければ、
国の違いも、価値観の違いも超えて前に進めない。

最後まで、やはり考えさせられる相手だった。

ナイバシャを去る日の病院は、
10日間続いた看護師のストライキがようやく開けた日だったということもあり、
ガランとしていた前日までと違い、 赴任当初に出会った多くの人々総出演といわんばかりの
ほのぼのした一日で、みんなからの言葉がとてもうれしかった。

ストライキが空ける寸前のガランとした小児科病棟。
お金のある人はその間、私立病院へ。
そしてエスタやバイロン、ジョンたちとはその日会えずじまいで終わった。

みんなナイバシャにいなくて、それぞれの活動場所にいたその日。

そんな彼らだったからこそ、私はいつも助けられた。

思い返せば彼らとの最後は、次が必ずあるようないつもと同じ様な別れだった。
電話で別れを惜しみながら、彼らと出会えたことに感謝した。

彼らを含むナイバシャの人々からみれば、たった一人の外国人が自分の地を去っていくという現実。
何も変わらない日常が今日までも明日からも続く。 


いつもいつもイレギュラーで奔走させられたナイバシャの人々とたくさん会った一日だったのに、
乾期に戻った様な晴天の空も相まって心がカラッと晴れた穏やかな一日だった。

いつもと違ったのは、ここを去る身となった自分の心の余裕があったからだろう。



そして、手際のよい後輩隊員たちに手伝ってもらい

ようやくまとめた荷物をケニア風に強引にトラックに積み込み、ナイロビへ出発。


私と共に過ごした家具たちは、ナイロビ周辺の後輩たちの家に無事引き取られていった。











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